大阪・心斎橋の老舗占い館【占龍館】
代表の黄麗です。
セキララにこれまでの人生の振り返る
「波乱万丈の女!占術家・黄麗の半生」・・・
その94回目は「その94:自分が許されているのに」のお話です。
その前に・・・
こちらはすでにお読みいただいていますか?
前回の記事はこちら!→「その93:その人をそのまま認める」
自分のことが観えるということは、とんでもない自分も観えてくる。
よく、自分のことは棚に上げて、人のことを言うというのは
自分のことが観えていないから言えるだけ。
他人を変えることは出来ない。
変えられるのは、自分だけ。
そう言われても、納得できない。
自分を変えることがとても難しいことを知ると、
他人が変わらないことを納得する。
自分も出来ないことを人に要求しているなんて、滑稽だ。
また、人は対応しているだけのことが殆どである。
だから、自分が変われば相手が変わる。
実はこれは、当たり前のことなのだ。
人のことをとても批判する人がいた。
その人は、自分は正しいと思い込んでいた。
そして、気が付かない所で、人に対して迷惑をかけている。
しかし、それにも気づいていない。
そんな自分を周りは許してくれていることに気が付けたら、
人も許すことが出来るだろうに。
皆、欠点だらけで生きている。一生懸命生きている。
愛を与えることをせずに、批判をすれば、その人を傷つけているだけだ。
なぜ、フォローをしない?
批判するということは、その人の欠点が観えているからだ。
その足らない部分を自分自身がフォローできるのなら、してあげればいい。
できないのなら、批判することに意味はない。
できない自分の力の無さを詫びればいい。
また、自分が許されて存在できているのに、
その自分を、自分自身が許していない人もいる。
これは、他人を批判するより、たちが悪い。
自分を責めてはいけない。
それは、傲慢極まりないのだ。
自分を創った存在に対して、詫びることはしても、
自分自身を責める資格はない。
自己嫌悪が悪の極みだと、
知らないから簡単に自分を傷つけてしまう人がいる。
あなたは、あなたを許しているその存在よりもエライのか?
身体も、能力も、心も、魂さえもすべてが、その存在から与えられたものなのに。
それを慈しみ、育むみ、輝かすのが役目なのに。
これは、昔の私自身のこと。
実は、黄麗はこのことに気づけてから、自殺を出来ない人になってしまった。
それまでは、幾度となく、自らの命を断とうという思いが自分を襲っていた。
小学生のころからずっと・・・
だから、死ぬぐらいならと、15歳の時に家出をした。
今は、不死永遠に続く魂の存在を知った。
だからこそ、命のある限り、肉体のおかげで気づけること、
他者のおかげで気づけることを学ばせて頂こうと、
そして少しでも恩返しが出来たらという人間に変わった。
若くして、苦しんでいる人に出会うと、過去の自分が重なって来る。
この人は、いつ気づいてくれるのだろう?
私をそんな思いで見守ってくれていた存在の側に、今私はたどり着いている。
続きはこちら!→「その95:謙虚な霊が高級霊」